昭和48年7月20日 堤清の霊神百日祭
                              中村良一


御霊様になられて、もう百日になった訳です。御霊様の働きも、目には見えない、聞こえはしませんけれど、本当に、微に入り、細にわたっての働きがあっておるけれども、それを、悲しいかな、受け止めきらんでおるというのが、今の堤さんの状態じゃないかと思うですね。
今日、私はあの、御神前で、一番初めに頂いたことは、あの、三味線の爪弾きをしておるところを頂いた。どういう事だろうかと、私は思ったんですけれども。世間の人はね、または、心無い人達は、また信心の薄い人達は、あれだけ熱心な信心が出来よってから、どうした事じゃろうかというだけではなくて、様々に取り沙汰する人もある訳です。まぁ言うならば、お気付けを頂いたとか、罰かぶったとかと言った様な事すら、例えば、人の口の端には戸は立てられん。どういう事と、言うたり、思うたりしておる人があるかも分からない。けれどもね。三味線と言うのは、こら本当は、撥ですね。けども、撥ではないんだ、爪弾きだという事です。爪弾きという事は、これはね、後々の者を、導くという意味なんです。第一、妻を、子供を、または親を導く。
例えば、まぁ、若い年代で、お国替えをすると言うと、何か、いかにもこう、早死にしたと。確かに早死には早死にだけれども、人間の運命と言うものは、どうにも出来ない。これは、神様の、言うなら寿命を頂いて、あれが、もし信心がなかったら、どうだろう。徳も受けてない、信心も分からないで行っとったら、もうそれこそ、まぁ真っ暗な世界だろうと思うです。堤さんな。
例えば、信心は、その後において、大した信心は出来んけれども、はぁこりゃ、御霊様の働きじゃろうと思う様な事があるでしょうが。色々な上で。けれども、それを十分に受け止めるのは、後からの信心の、御霊様の、どんなに働きが、天地の親神様の働きが、どんなにありよってもね。それを受け止めるのは信者です。それを現すのは信者です。御霊様の、どういう働きがあるほどしのおかげを頂いておっても、それを現すのは、後に残った遺族です。
この頃から、末永先生が、壱岐の末永先生が頂いておられるように、ね。もう、それこそ、教師の資格としての位まで、神様は下さっておると言う。この頃は、今、出掛けに、若先生から聞いたんですけれども、聖子さんが頂いておられるなんかでも、兄さんは、免許証を持って行っておられたからという事はね。そういう、例えて言うなら、人でも助けられるだけの力の、言うなら、免許証という事は、その印という事。まで頂いておられる。しかもそれは、御本部参拝してから、それを頂いたと言う訳です。だから、そういう、ほんなら、働きを、力を頂いておっても、それを、現していくのがね。後の遺族の者ですよ、照代さん。ね。だから、それはね、例えば、この中山亀太郎先生のお話を、あなた方は、聞きに行ったか、行かなかったか知らんけれど。本当に、お母さんが、あの手もなかれば、足もないと言う、だるまの様になった、中山亀太郎さんを、それこそ、おんぶも出来ないような中をです。あぁ言う素晴らしい先生に育てなさったち言うのは、もう母の一念、母の念力だと。これ、二人残された遺児、子供達を、いわば、母の信心で、一つで、立派なおかげを頂いていかなきゃならんという意欲、願いを言うものを持たにゃ出来ん。ね。
私は、それで次に、その事をお願いさせて貰いよったら、あの、琴のね、あの駒が、三つしか、こうやって、あの駒が掛かってないところを頂いた。後は全部、まだ駒が掛かってない。駒という事は、琴という事は、真という事。まことが、まぁだ、三つしか出てないという事。後の、まだ箱に全部、例えば、言うならね、例えば、そういう、ほんなら、子供が、親よりも先立つ。まぁだ幼い子供を残して発っていくと言う様な事やらは、普通で言うなら、もうこら、大変不幸せな事。難儀な事。けれども、その難儀な事と思うことが、大きければ大きいだけ、次のおかげは大きいです。信心さえさせて頂きゃ。ね。例えば、私が、あの、弟、まぁ兄弟達の葬式を、半年余りに三つもさせて頂いた時でもです。私の場合は、その都度都度に、信心が伸びておりますもん。私は、弟の戦死の広報を聞いた、その月から、私は、御本部へ月参りを始めとるです。
今日、ここの、あのお祭りを、お宅のお祭りを仕えようと思う時に、ちょうど、安東さんが、孫連れてから、初参りをしてきた。あれは、お名前が、尚という字、しょうという字。ね。これはどういう事か。安東という事は、東をさすもの。東という事は、御本部をさすもの。例えば、聖子さんが頂いたのも、やっぱ、御本部という印を頂いておる様にね。それこそ、東のほうへ向かっての信心。仏教のほうは、西のほうへ向って、何とか浄土とこういうでしょう。御道の信心は、東のほうへ向かっていくのじゃ。ね。東のほうへ、本当に向かってですね。もう、尚、益々、尚、いよいよのおかげを頂くという事が、新たに生まれる。あの、こういう事なんかでも、そりゃもう、微に入り細に渡ってのい神様の働きなんですよ。お宅の御祭りの前に、私があの、お礼をもうさせて頂いておる。そういう神様の微妙な働きがあっておるという事。ね。ですから、例えば、ほんなら、琴に三つの、三本では、ほんな調子も出ませんし、それが、曲なら曲にもなりません。真と言うものが、全部にかけられて、それが調子が合うて、これが奏でられる時に、いわば、自分も聞き取れるような音色も出る。人も聞いて素晴らしいという事になる。そこで、ほんなら、後に残された、皆さんの信心と言うものがです。
もう本当に、ただいま、合楽で言うておる、五つの願いなんかの為に修行せにゃいかん。第一に、体の丈夫を、皆が願わにゃいけん。ね。どぞ、家庭に不和のないように、円満なおかげをいただかにゃいけん。家庭の中が、ぶっすりがっすりするようなこっじゃおかげにならん。ね。そして、いよいよ、子供達に、信心の継承が出来る。いわゆる、子孫繁盛家繁盛のことを願わにゃいけん。働くという事もです。これは、本当に、神様に喜んで頂く様な働きが出来るようにならなければいけん。ね。真実の御用が出来ますようにという事は、そういう事。神願成就という事は、本当に、そういう有難い、例えば、普通から言うならば、こう言う不幸せな事に合いましたけれども、それを境に、堤の一家が、こげな風に、信心が発展して、おかげも、この様に繁盛していけるという事をです。世の人達にでも、見てもらえるほどしのおかげを頂くという事。その、おかげを頂いた心で、神様の、言うならば、願いとされるところの、和賀心時代を作るといったような、大きな御用にでも、願いをかけさせてもらうという信心になっていかにゃいかん。この五つの願いと言うものが、繰り返し繰り返し、ただ、願うだけではなくて、修行が伴わなければいけん。
今、お祭り前に安東さんに、私が、御理解を一口説かせて頂いた様に、ね。私はもう、どういう小さいお祭りでも、お祭りを仕える前に、必ず、身体を清める。不思議に、身体を清めると、そこから、何とはなしに有難いお祭りが仕えられる。皆さんでもね、お祭りを仕える時にはね。ほんなら、夜の御祈念でも、何か特別の御祈念でもするち、何か特別お願いせんならんち言うた時には、お水をいっちょ頂いてから、御神前に出てごらん、違うです。ね。私は、必ず、身体を清める、ね。清めるところから生まれてくるのが、形だけではあるけれども、有難いなぁという、こうしてお祭りが仕えられる。それが、まして、心が清められたら、素晴らしい事になる。御道の信心は、有難くなる稽古と言われるけれども、有難くない心は、どげな心と言うて、教えばっかりいただいたっちゃつまらん。心を清めることに、本気で努めなければ。心を清めるとね。今まで、有難くないと思うことが、有り難うなる。
今日、私は、中村初美さんのお届けを聞かせて頂いたが。それこそ、信心させて頂く、まぁ合楽にご縁を頂いて、二十何年、ね。初めて、信心の有難さというものが分かって来たとこう言う。もう、問題が起きてくると、それが有難い。今、康代さんが、ああして、死ぬか生きるかち言うごたる病気をしとる。その事の為に、一心発起して、一家中の者が、お参りをしてくる様になった。ね。はぁ本当に、信心ちゃ、何十年信心しよって、こげなこつが、どうして分からじゃったじゃろうかという事を、今日、色々お届けしとります。それは、結局、信心ちゃ、自分が先生、改まるより他になないですね。自分が磨くより他にないですねという事になってきた。二十何年ぶりです。合楽におかげ頂いて、初めてそれが分かった。そこで、ほんなら、この暑い道中に、仕事を休んでからでも、昼の修行に出てくる様な事が、それがもう、有り難うして、有り難うして応えん。
今日も、ある、実を言うたらば、心が淋しゅうなる様な、腹の立つ様な事を、聞いたり、見たりしたけれども、それが、涙の出るほど有難かったとこう言うです。ね。心を清めるとです。不思議に、有り難くない事が有り難うなって来る。腹の立つことが、かえって有り難くなって来るて。不平不足言いよった事が、とても勿体のうなってくるて。そういう心が有難いという。そういう心で、お宅の場合は、御霊様におすがりをする、御霊様の特別の働きがありよる。その働きと、皆さんの、その有難いという心が、一つになって、言うならば、いよいよ、健康の上にも、家庭円満の上にも、いよいよ、子孫繁盛家繁盛の上にも、おかげが頂かれる。そういうおかげを現していかにゃいけん。
世の心のない人達は、様々な難儀に合うと、あげん信心しよってったっちゃ、どうしてあげん難儀せっしゃらなんじゃろうかという様な風に、言いがちなもんです。そういう事が、耳に入る様な事じゃおかげにならん。もうそれが、耳に入りゃ入るほど、本当に有り難いと、これに感じられるような。信心頂いておるおかげでと、ね。
例えば、今日、善導寺の原さんがお届けしておられる。もう本当に、主人を亡くした淋しさはあるけれども、その淋しさよりも、もっともっと、有り難い。もうとにかく、十日、十日のお祭りを仕え。今から、まぁだ、それがもう、心楽しゅうてたまらんて、今日、原さんな言うておられます。それは、御霊の働きも信じ、神様のご都合で亡くなった事も信じておられるから、それがそうあるんです。もう本当に、十日祭にはどうしようか、二十日祭には、こうと思うただけでも胸が、宅祭り仕える時の様に、心が弾んでくるち言うておられます。とても、普通でね、だから、隣の野菜屋の小母ちゃんが、昨日、小母ちゃん、あなた、いっちょん、悲しみなさらんがち。いいや、そうりゃやっぱ、亡くなった時には、悲しみましたよち。けれども、本当の事が、段々、少し分かってきて、御霊様の事も分かり、神様のおかげを受けてから、御国替えのおかげを頂いた事が分かっておりますから、有難いと思う心がね。死んだけん、ありがたかつじゃないですよ。信心が有難いという事が、こういう事に直面して、初めて、一段と分かってきたとこう言うのです。ね。と言うて、ほんなら、近所の人から、こう怪しまれるくらいにしておれるという事は、信心の徳です。初美さん、ほんなごて、あんた、二十何年ぶりに、ほんなら、本当の信心が分かりだしてきた。してみると、康代さんが、どげんじゃったっちゃ、こげんじゃったっちゃ、康代さんにお礼ば言わにゃんごたるね。神様にお礼を言わんならんねと言うて申しました事でした。ね。
お父さん、あんたが亡くなる時には、こうじゃった。子供は、まぁだ子供で、子供はまぁだ、年端も行かん高校だった。けれども、あれを境に、私の信心が飛躍した。あれから、私の心が、いよいよ、改まられた、清められた。おかげで、こういう、お父さん、見てください。おかげを受けて行きよるよという様なおかげを頂かなければ、御霊の働きを現すことは出来ん。ね。お父さんの身体の上にも、ね。もう一遍、例えば、堤占吉商店がです。生き生きと若返らなきゃいけん。そん為に、そういう働きが、沢山ありよるけれども、それを、こちらが、ね。ただ、悔やんだり、悲しんだりすることのほうが強いから、それをキャッチしきらん、受け止めきらん。まぁだ、琴の糸に、三つしか、琴の駒がかかっていない。ね。どうしたことじゃろうか。どうして、こういう事になったじゃろうかてんなんてんと言うのじゃなく。分かりません、分かりませんけれども、神様のご都合に間違いはないと、お礼を申し上げあせて頂いて、一段と、ここから信心を進めていくところからです。神様の働きを現すことも出来りゃ、御霊の特別な働きを、また現すことも出来る。なるほど、御霊さんの働きと言わにゃおられんと言った様なおかげをです。あなた方だけではなくて、皆が気付かせて頂くくらいのおかげをいただかにゃね。それこそ、清さんの御霊様に対しても、相すまん。あれだけの信心が出来て、あれだけの、ほんなら、力と徳を受けておっても、力の現しどころがない。ね。現しよっても、それを受け止めきらなかったら、どうにも出来ないでしょう。後の信心を、一つ大事に大事にしていただかなきゃなりませんですね。
いっちょ、もうあの、仏教のほうのほうはですね。例えば、死なさったっちゃ、もう、なーにならん事ですからね。もう、お坊さん呼ばんでいいけん。親戚近所、呼ばにゃいかんなら、呼ぶだけ呼んでね。かえっていかんですよ。東のほうへ向けにゃ駄目です、心を。ね。そうせんとですね、一心が定まらん。ね。より有難い、もっと有難いお祭りが仕えられん。本当に、これにどうでしょうかね。親戚中の者が集まって、この十日祭を仕えられるような。そこにおかげを頂くためには、先ずは、あなた方が、心が生き生きとして、有難うなって来なければ、それをやってのける事が出来ん。いやぁ、おかげですと、言い切れきらん。ね。折角、神様のおかげを、あれだけのおかげを頂いておってです。何時までも、煮えきらん信心が続いたっちゃ駄目です。ね。
もう本当にあの、例えば、先日の、原さんところの告別式なんかを見せて頂いて、どうして、こう言う有難い告別式が出来るじゃろうかと言うごたる告別式が出来る。そこに、一つの一念が、一つに固まるからです。ね。そら、なるほど、あなた方の信心が、神様という事に一念じゃあろうばってん。やっぱり、ナンマンダブも言いよる。そういう事ではね、あの、おかげをいただけるはずは、決してない。それには、先ず本当に、生き生きとした有難さが生まれてこにゃ。本当に、その事は苦しいことであり、悲しいことであるけれども。それ以上の有難いものをいただかにゃ。でなかったら、本当な道に出ることは出来ない。ね。御霊様に対して気の毒になる。そんな気が致しますね。どうぞ。